女房のこわくない兵隊は左へでろと隊長が命令したら一○○人のうちたった一人が左へ出て、頭をかきかき、低声で、イエ、ナニ、私かねがねみんなのあとについていってはいけないと女房にいわれつけてるもんですから、と答えたという。
(中略)
ブカレストからチェコのプラハへいったところ、通訳と案内を兼ねて、美女が一人、あらわれた。
ノーマン・メイラーやヘンリー・ミラーなどという作家を研究していると名乗ったからには、かなり奔放な心性の持主かと見たいところだけれど、つきあってみると、なかなかつつましやかで温厚な女性だった。
けれど、なにげなく、指を見ると、エンゲージ・リングが光っているので、人妻なのだとはっきりわかる。
この女性にこの話を英語でやってみたところ、顎をそらして笑いながらも、中欧のひめやかさでそれをおさえているところがある。
そこで、一歩つっこみ、あなたの夫がおなじ質問を隊長からだされたら、右へいくでしょうか、左へいくでしょうかとたずねてみたところ、彼女はいきいきとしながらも謙虚な口ぶりで、答えた。
「夫のことは夫のことでないとわかりませんから、私にはどう答えようもありません。しかし、もし私が夫だったとしたら、一も二もなく右へでるでしょうね」
あっけなく彼女はそういって笑った。
この笑いには二度ほど裏を返したところがあって、瞬間のうちにオトボケと率直を同時に表明するという技であるように私には感じられ、技巧を感じさせずにそれをやすやすとやってのけたあたりに彼女の知性の鋭さと感性の柔らかさを一致しておぼえさせられた。
" ソフィスティケーション "と呼ばれる心の反射はただ洒脱だけに神経の切尖を磨いておくのではなく、同時に本然の謙虚さや素朴さもそっとどこかに匂わせて相手を微笑のうちに信頼させる技でもあるらしいなと、痛感させられたことである。
「開口閉口」収録「小さな話で世界は連帯する」より
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