文学は徒労である。
そうと知りながら言葉を編まずにいられない。
のしかかってくるものがあり、追いつめられたと感ずるからである。
それは原始的な本能である。
ライオンの身ぶりをして踊れば自分がライオンになった、またライオンから逃げられるものとしてむだに踊りつづけた原始人の情熱が小説を書かせる。
充実しきったむだごとが小説である。
いまさら何をいうことがあろう。
さらにサイゴンには墓標がキノコのように発生しつづけ、いつかまた私は言葉を排泄にかかる。
1968年(昭和43年)12月21日、サンケイ新聞「南の墓標」
「ああ。二十五年」より
講演「経験・言葉・虚構」でも同じような話が出てきます。
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