【小説】ロマネ・コンティ・一九三五年

開高健「ロマネ・コンティ・一九三五年」「玉、砕ける」「飽満の種子」「貝塚をつくる」「黄昏の力」「渚にて」

精緻玲瓏の文体で描きつくし、絶賛された六つの作品。
この作家長年の旅と探求がもたらした、深沈たる一滴、また一滴。
古美術にふさわしいヴィンテージワインを前にして、作家の脳裡をかすめる映像は鮮明、濃厚ながら瞬時に茫漠とした虚無へと変貌する。
作家の体内で熟成された、食、阿片、釣魚など、官能の諸相、その豊饒から悲惨まで、散文表現の頂点ともいうべき成果がこの名短篇小説集である。
川端康成文学賞を受賞した「玉、砕ける」を収める。

没後20年、読み継がれる散文表現の最高峰。〈新装版〉帯より

ロマネ・コンティ・1935年 (文春文庫 127-4)

「玉、砕ける」

ある朝遅く、どこかの首都で眼がさめると、栄光の頂上にもいず、大きな褐色のカブト虫にもなっていないけれど、帰国の決心がついているのを発見する。

「飽満の種子」

昂揚もなく、下降もない。沸騰もなく、沈殿もない。暑熱もないが、凍結もない。希望もなく、後悔もない。期待もないが、逡巡もない。善もないが、悪もない。言語もなく、思惟もなく、他者もない。ただのびのびとよこたわって澄みきった北方の湖のようなもののなかにありつつ前方にそれを眺め、下方にそれを眺める。おだやかで澄明な光が射し、閃きも翳りもなく揺蕩している。

「貝塚をつくる」

一人の男の釣姿の写真が出てきた。早朝の森がのしかかる川に白い霧がわきたち、無数のアブの群れが金粉をまきちらしたように見えるなかで、川のまんなかにつきだした白い桟橋の突端に、一人の男が白いチョッキを着て竿をかまえ、リールを巻いている。

「黄昏の力」

今もおなじだけれど、二十数年前のその頃も、毎日、夕方になると、飲まずにいられなかった。

「渚にて」

すべてが易しく感じられ、危険がこみあげてきた。静謐のうちに即興がはたらきそうであった。十六歳のときに憧れて、その後、決行する気力と偶然がないままに腐食して放棄してしまったものがいま見える。

「ロマネ・コンティ・一九三五年」

小説家は耳を澄ませながら深紅に輝く、若い酒の暗部に見とれたり、一口、二口すすって噛んだりした。いい酒だ。よく成熟している。肌理がこまかく、すべすべしていて、くちびるや舌に羽毛のように乗ってくれる。ころがしても、漉しても、砕いても、崩れるところがない。さいごに咽喉へごくりとやるときも、滴が崖をころがりおちる瞬間に見せるものをすかさず眺めようとしているのに、艶やかな豊満がある。円熟しているのに清淡で爽やかである。つつましやかに微笑しつつ、ときどきそれと気づかずに奔放さを閃かすようでもある。咽喉へ送って消えてしまったあとでふとそれと気がつくような展開もある。

追記:
2009/12/04 〈新装版〉ロマネ・コンティ・一九三五年 発売。

ちょっとだけ値上げ(¥420→¥550)してます。

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このサイトについて

開高健(かいこうたけし)
1930年12月30日〜1989年12月9日
ベトナム、アラスカ、モンゴル・・・
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